大舞台への想い

そもそも世界のトップ選手が集結するソチを目指すと村岡選手が決めたのは、大会のわずか2年前の中学3年生のときのこと。スキー技術も未熟で、下肢障がいの選手が使用するチェアスキーを調整するメカニックの知識もない。まさに右も左もわからない状態だった。

「高校1年生で参加した初めての海外遠征では、とにかく他の選手とのタイム差がすごくて自分自身が情けなくなりました。でもそのおかげで『このままじゃダメ』と思えたというか。帰ってからめちゃくちゃ練習しました」

当時、自宅のある埼玉の進学校に通っていた高校生・村岡選手の毎日は実にパワフルだった。平日は8時から19時まで学校で勉学に励み、帰宅後も夜中までかけて課題をこなす。土曜の午前も授業だ。昼過ぎに下校するとすぐ埼玉から練習場所である長野のゲレンデに移動。土曜午後から日曜という限られた時間を使い、めいっぱい練習するハードな日々を送った。

「今振り返ってもよくがんばれたなと思います。しんどかったです。でもソチに行きたいという強い思いが自分を突き動かしたのだと思います」

もともと障がい者スポーツ最高峰の舞台に強い憧れがあった。4歳で脊髄の一部が炎症を起こし神経が傷つく横断性脊髄炎を患い、車いす生活になった村岡選手は、小学生の頃から障がい者スポーツを楽しむ講習に参加し、車いすスポーツに親しんだ。そこで数々のパラリンピアンと交流していた彼女にとって、4年に一度の特別な大会を目指すのは自然なことだったのだ。本人は母に教えてもらうまで忘れていたというが、小学校4年生のときの文集を開くと、確かに『パラリンピックに出場したい』と書いてある。ただ、小学生の村岡選手の目標と現実が一つ異なっていたのは、目指していたそれが夏の大会だったということだ。実は、中学2年生まで車いすのスプリンターとして陸上大会にも出場していたのだ。

埼玉で生まれ育った村岡選手にとって、スキーは特別なものだという。雪のあるゲレンデはそれ自体が新鮮。限られた期間にしかできないというウィンタースポーツならではの魅力ともあいまって、いつのまにかスキーに魅かれ、気づけば夢中になっていた。
陸上で培ったチェアスキーを操る身体の使い方と体力、そしてハードな練習に耐え切る根性を武器にメキメキと上達。ソチを目指さないかと声をかけられ、遊びの一つだったスキーに本格的に取り組むようになると、すぐにナショナルチームの選手たちと練習したり、世界を転戦したりするようになった。もちろん、そんなことは普通ではできない。しかし、村岡選手がそこに食らいついていけたのは、陸上経験があったからこそだ。

「スキーって寒いし冷たいし、転ぶと体も痛くなる。けれど、スピードに乗っていく感覚が楽しいんです。レースで負けたくないと思うのは、陸上と同じかもしれませんね」

実は、夏の東京大会出場もあきらめたわけではない。

「競技をやっているからこそ難しいことはわかっているけれど、やはり出たい気持ちはある。今は平昌大会出場に向けてスキーに集中しているので、終わってから考えてみようと思います」

Back Number