こだわりと学びに満ちた機内食パティシエの厨房 雲の上にいるお客様に、地上でできる最善のおもてなしを旅客機の高度は地上から10km離れているというのに、厨房から「できたての美味しさ」を届けようとする人がいる。揺るぎない安全性とおいしさ。美しさ。すべてに気を配る。ーー甘いデザート作りは、ピリリと厳しいプロの世界だった。文=吉州 正行  写真=小島 マサヒロ  #14 ANAケータリングサービス ペストリー部門 森 優希

イメージを覆した“手作り”だらけの機内食作り ぐつぐつと鍋のなかで煮立っているのは、牛乳と水、グラニュー糖に塩をひとつまみ入れたもの。そこに薄力粉を入れ、卵黄と合わせて丹念にこねる。絞り器に移し、ベーキングシートを敷いた大ぶりのトレーにテンポ良く絞り出したら、自家製のクッキー生地を上に載せて巨大なガスオーブンに入れ、175℃で30〜40分。こんがりと芳醇な香りが漂ってきたら、シュークリームの生地の完成だ。これはANAのスペシャリテになる。国際線ビジネスクラスの人気デザートなのだとか。「原料から自社で手作りするのですが、日に400個くらい作ります。全部サイズを合わせなくてはいけないため、絶妙な力加減と勘だけが頼りです」機内食のペストリー部門、すなわちデザートを手がける森 優希は、この道6年。だがもともと「機内食に関わりたい」と考えていたわけではなかったようだ。入社したキッカケは「私の親が料理上手だったので、自分もそうなりたくて洋食の調理を勉強しました。調理専門学校に通っていたときに、機内食の求人を目にしたのがキッカケでしたが、デザートは配属先だったからというのが理由です」それまで機内食には“お弁当”のようなイメージしか持ち合わせていなかったという森。だが先述のような工程と手作りへのこだわりに驚いたという。
一度手を離れる料理に真心をたっぷり込めて 「とくにファーストクラスやビジネスクラスでは、レストランでも見られないような手の込んだものを作っているんです。もちろんエコノミークラスでも、衛生面など食の安全に関しては高い基準が設けられていますね」たとえばこのインタビューが行われている厨房施設は、成田空港からクルマで10分ほどの場所にある。出発便の時間に合わせて調理が行われるケースもあるが、それでもできたてをお客様に召し上がっていただくわけではない。「調理エリアの気温を17〜18℃に保つ事や、時間ごとの食材の温度管理や調理スタッフの衛生管理など、日々記録を取りながら徹底的に行っているんです」それを踏まえて“美味しさ”を追求するのだ。「機内搬入時のファーストクラスやビジネスクラスのデザートは、フルーツやケーキとソースが別々で、客室乗務員がお客様にお出しするタイミングで調製を行います。客室乗務員が行う3〜4工程の作業を、いかにミスなく行えるかという点も重要なんです」最後は他人に任せるからこそ、先を見通して全力を尽くすのである。「レストランやホテルと違って、料理を召し上がったお客様の反応を直接見ることが出来ません。ただ、客室乗務員からのレポートに、お客様から機内食のお褒めの言葉などが書いてあるときは、『頑張って作って良かった!』と心底嬉しく感じられますね」
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旬を考慮し、社内一丸で美味しさを追求する メニューの更新はおよそ3カ月周期で行われるという。それはもちろん、厨房が自由に作っていいというわけではない。「機内食更新の数カ月前にプレゼンテーションが行われ、ANAの様々な部署の担当者が試食を行います。私はまだメニューを作れる立場にはありませんが、調理のアシスタントを任されることはあります」かくして選ばれたメニューは、調理スタッフに共有され、実際に調理が始まる。「早番のときは朝6時には出勤をしています。食器や器具を一通り準備をします。一方遅番は、昼の12時過ぎに出勤し、後片付けまで行うので21時くらいまで厨房にいます。また中番というシフトもあって、10時くらいに出勤して17時まで調理に専念します」年中無休で昼夜にわたって運航する国際線だけに、様々なシフトがある。休みはおおむね週2日。作るメニューは豊富だ。「今はココナッツとパイナップルのムースや、マンゴームース、ファーストクラスでお出しする『タテルヨシノ』さんとコラボしたショコラタルトを主に作っています。どれも難しいですし、クオリティをキープしてバラツキが出ないようにしなければならないので大変ですが、楽しいですね」こう語る森の表情には、料理が好きということがありありと見える笑顔があった。
目の前の料理を全力で。それだけに心を砕く日々 「最初のころは失敗もしました。計量を間違えゼリーや寒天が固まらなかったなんてこともありました」だが社会人になってこの方、機内食一筋で培ってきた経験は、否応なしに職人を成長させる。「一番思い出深いのは、世界的に有名なパティシエのピエール・エルメさんとコラボしたメニューですね。ゆずを使った濃厚なケーキだったのですが、日本人が考案するレシピとはちょっと違った力強さを感じられて、すごく勉強になりました」今では一通りのメニューを作ることができるようになった。だがペストリー部門だけで見ても、まだ中堅にすら至らない。料理の世界かくあるべしという厳しさだ。「もともと学んできた洋食など、ペストリー以外に興味は?」と尋ねたところ、日々の業務をこなすだけで精一杯だと、森。「覚えることが多いですから。たとえばこれから更新となるメニューもそうです。9月のメニューはオレンジとデコポンジュースを使ったカップのデザートと、欧米の路線ではティラミスを出す予定です。またファーストクラスではANACオリジナルメニューとして、チーズケーキ、ぶどうのタルト、栗とミルクのアイスクリームを予定しているんですよ」