仲間がいたから、前を向けた

東京大会から正式種目となるパラバドミントン。日本も強豪国の一つで、メダル獲得に大きな期待がかかる大注目の競技だ。日本代表の中には、正式種目に決まる前から国際舞台で活躍している選手もいるのだが、そこに新星のごとく現れ、一躍メダル候補に躍り出た選手がいる。車いすカテゴリー(クラス:WH2)の19歳、梶原大暉選手だ。

梶原選手がパラバドミントンを始めたのは4年前の2017年、高校1年生の5月のこと。その年末の日本障がい者バドミントン選手権シングルスでいきなり準優勝。その翌年度から次世代アスリート、2020年度からは日本障がい者バドミントン連盟の強化指定選手となり、以降は国際舞台を経験しながら着実に力を伸ばしてきた。

急激ともいえるその成長ぶりの要因の一つは、競技選択にあったのではないか。実は、梶原選手は小学3年生から中学2年生まで野球をしていた。特に中学生時代は、野球がさかんな地元・福岡にあって、全国大会優勝を目指す強豪チームに所属。ピッチャーとして、チームメイトと共に練習に励む日々を送っていた。ところが中学2年生のある日、交通事故に遭ってしまう。

「病院に運ばれたところまでは覚えているのですが、そこからは記憶がとぎれとぎれなんです。はっきりと意識が戻ったのは約1か月後でした」

意識が戻るのと同時に、右脚の切断と左脚のマヒを知った。そのとき真っ先に頭に浮かんだのが、「もう野球ができないんだ」ということだったという。

「絶望というか……。野球が大好きで、当時は野球のことしか考えていなかったので」

もしあのとき孤独だったら、目標を失ったままだったら、今もスポーツはおろか、外にさえ出ていなかったのではという。しかし、梶原選手には仲間がいた。野球のチームメイトやコーチ、学校の友だちが次々とお見舞いに訪れては、「がんばれ」「待っているぞ」と励ましてくれたという。

「試合に僕のユニフォームを持って行ってくれているとも聞きました。おかげで、僕は一人じゃない、早く元気になってチームに戻りたいと、前を向くことができました」

入院生活ですっかり細くなった腕で自分の体を支え、移動するリハビリに取り組んだ際は「すごくきつかった」(梶原選手)という。それでも乗り切れたのは、仲間がいたからこそだ。

約半年間のリハビリを経た後、梶原選手は中学3年生を目前に控えた春休みに無事、退院。すぐに野球チームに復帰すると、「今度はみんなのために自分ができることをしたい」と、自ら願い出てスコアラーとなった。その年の夏、チームは全国大会に出場し、ベスト8という好成績を収める。もちろん梶原選手も同行し、感動を分かち合った。そして8月末、同期の仲間たちとともに梶原選手は卒部した。

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