
2015年、国内19番目の世界遺産登録がされた
明治日本の産業革命遺産。
全23資産により構成されている複合遺産だが
こと軍艦島に関しては、注目度が高いのは周知の通り。
戦後の高度経済成長を支えた
炭坑マンたちの仕事場として、また生活の場として、
どのような暮らしがあったのだろうか。
Text:Ryo Kawakami(YAMAKO)
Photo:Masahiro Kojima
軍艦島へは現在、長崎市の管理下にあり、幾つかあるツアー会社への申込でしか上陸はできない。そのツアーも世界遺産登録以降、平日でもほとんど予約でいっぱいになるという人気ぶりだ。閉山前まで長崎本土から食材などを送っていたという馬場さんに話を聞くと、当時での輸送時間は現在の3倍ほどで、一日に何度も往復できる距離ではなかったそうだ。自身も数少ないツアーを催行しており、今回は上陸までを案内してもらった。

出港してしばらくすると、沖合いに独特のシルエットが現れた。紛れも無い軍艦島である。辺りには当時生活に欠かせない湧き水を引いていたという「中ノ島」など小さな島が点在しているが、明らかに島のそれとは異彩を放っている。軍艦島の正式名称は「端島(はしま)」。日本海軍の船艦「土佐」に似ていることから軍艦島と呼ばれるようになったというが、一見すればそう見紛うのも無理はない。船は真っすぐ軍艦島に近づいていくが、まるで軍艦に近づいているような感覚だ。

軍艦島の存在感は圧倒的だった。島は思ったよりも大きく、近づけば近づくほど存在感を増していく。丁寧に固められた防波堤は今も健在で、滑らかな曲線を描きながら島をぐるっと取り囲んでいる。360度島を観察すると、島の正面は炭坑の現場や、学校やグラウンドといった施設が見えるのに対し、背面は住居エリアとして防波堤ギリギリまで建物が密集している。当時暮らしていた人々は窓からどのような景色を眺めていたのだろうか。

船は島の東岸にあるドルフィン桟橋に接岸。防波堤もなく接岸するのが難しいため、波の高い日は上陸することができないこともあるそうだ。桟橋から鉄製の橋を渡ると、島の上空に数羽のトンビが舞うのが目に入った。人を寄せ付けないような、ただならぬ空気に圧倒されながらも、いよいよ軍艦島に足を踏み入れた。

言葉を失った。目の前に広がる瓦礫と遺構は、日常で目にする光景とはあまりにもかけ離れていて、衝撃的な世界だった。上陸してすぐに目に付く桟橋からほど近い島の東側には、主に貯炭場などの炭鉱関連施設などが並んでいたという。石炭を貯炭場に運ぶベルトコンベアの支柱など、現在もその一部が垣間見られる。島のほぼ中央の高い位置に建てられたアパートは、幹部職員が住んでいたという3号棟だ。島内で唯一の風呂付きアパートだったとか。


軍艦島は1890年(明治23年)三菱社が島全体と鉱区の権利を買収し、本格的に石炭の発掘を開始した。炭鉱の石炭は良質で、日本の近代化を支えてきた。石炭出炭量の増加と共に島は急成長を遂げ、1960年(昭和35年)には約5,300人が暮らしていたという。これは当時の東京の人口密度の9倍以上とも言われる、ダントツの人口密度世界一だった。島内には学校・病院・交番や神社のほか、映画館や理髪店、パチンコ店、さらにはスナックなども併設され、都市としての機能を兼ね備えていた。

軍艦島は近代都市だった。暮らしていた炭坑マンは過酷な仕事だったため、生活水準は非常に高かったという。国内で最初の鉄筋アパートの30号棟をはじめ、300所帯のマンモスアパート65号棟の最上階には屋上幼稚園。7階建ての小・中学校、日本の最先端が詰まっていた。主要エネルギーであった石炭がその座を石油へと譲ることになり、繁栄を極めた軍艦島は1974年(昭和49年)閉山。この年の4月20日に全ての住民が島から離れ、軍艦島は無人島となったのだ。

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当時はほとんど
緑はなかったそうだ。 -
炭鉱の中枢だった総合事務所。
共同浴場もここにあった。
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建物の中に差し込む光。
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灰色の島内で子どもたちが残した
鮮やかな彩り。
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たくさんの児童が通った
学校の廊下。 -
60年の年月を越えて、
今も建ち続ける。